「ここに助けられた者たちが運ばれいると聞いた」
僧たちはこの男も難を逃れ家族を探している者だと思い大広間に案内した。
「ここで怪我をした者たちの治療をしております」
女は男の持っていた荷物袋の中から包帯や薬草を取り出す。
「自分は医者だ。この寺院にあるありったけの治療道具を出してくれ」
それは洪水後始めての医者だった。
案内した僧は医者の手際の良い治療と適切に補佐をする女に舌を巻いた。
洪水から日が経っていることもあり生存者はそう多くもないが半日程ですべての患者の治療を一通り終える。
一息ついた医者たちに白湯を渡す。本来なら茶を渡すところだが茶を入れようとした僧に医者はこう言ったのだ。
傷ついた者たちに飲ませてくれ。と。
「お医者様、ありがとうございます」
この付近は河周辺を含め随分と落ち着いてきた。
都からの物資はまだ届かないが洪水を聞いた近隣の村から支援が来ている。生き残った者たちの生活もなんとかはなってくるだろう。
だが本当はここからが大変なのだ。しかし医者である自分にできるのは傷ついた者たちを癒すことだけだ。そう思い白湯を口にする
「あの、お医者様。もう一人見ていただきたい者が」
僧は広間から少し離れた部屋の隅でうずくまる左目に大きな包帯をした男の前で止まった。
一目で分かった。生気が感じられない。
こんな状況だ。こういう人間は何人も見てきた。男のためにはこのままそっとしておくべきかもしれない。だが自分は医者だ放っておくことは出来ない。
「見せてくれ」
包帯を取り傷口を見て医者は驚いた。
随分と深いというのにきれいなのだ。
寺院とはいえ洪水直後だ。衛生環境も良くはないむしろ悪い方だ。左目を鋭利な物で深く抉ったこれは雑菌や病原菌にいつ感染してもおかしくない。
むしろこれだけの傷だ感染しないほうがおかしい。実際傷からの菌で苦しんでいる者がこの寺院に何人もいた。
だがこれは感染どころかまだあれから2週間足らずだというのに治ろうとさえしている。
この男はいったい・・・
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
そういい、治療をしようと横になるように促すが男は動こうとしない。
仕方なく座ったままの状態で治療をしようと手をかけると男に遮られた。
「ほっておいてくれ」
そういうと立ち上がりその場は離れようとする。
「俺には必要ない」
「きちんと治療しないといけません!」
振り向きもせず部屋から出た男の心の傷の深さを思う。
家族、いやそれ以上の物を失ったか・・・
男に治療をするようにと促す僧を止める。
「お医者様?」
「傷自体は深いが完治に向かっている。大丈夫だろう。ただ左目に光を宿すことはないだろうが」
医者は自分の左手を見る。
この癒しの力は物を再生する力は持たない。人の持つ治癒力を最大限に上げるものだ。
この力を持ってしても助けられぬものは多い。
そんな気持ちを察してかいつも自分のそばで支え続けてくれる彼女が手を握ってくれた。
大丈夫よ。と言われているようで心が軽くなる。
その日のうちに発とうとした医者は僧たちの強い勧めに一晩の宿を借りることにした。
良い所だなと思う。
僧侶だからなのかはよく分からないが、ここにいる患者たちの手当も看護も限りのある現状で出来るだけのことをしている。
今まで見てきた洪水で傷ついた患者たちは苦痛や悲痛に苦しんでいる人ばかりだがここの患者はそうではない。
当然傷を負っているのだから痛みはある。だが僧侶たちは一人一人に声をかけ励まし慰めている姿を今日一日で随分と見た。
患者や寺院に来て亡くなった人たちの遺族も精力的に探していると聞いた。ここで亡くなった人たちだけでなく洪水で亡くなった腐敗しつつある遺体も埋葬に力を入れているようだ。
埋葬。
寺院ならば当然としてやるべきことなのだが腐敗しつつある数え切れない遺体は誰もが手をつけたくはないものだ。しかしこれをしないことには村の復興どころか都からの救援や物資もたどり着かない。
死活問題なのだ。
そして今日自分たちに宿を申し出てくれたのはもちろん患者たちのこともあるが何より治療し通しの自分たちの身を案じてくれたのだ。
医者は寝台から立ち上がる。目的は患者たちの様子を見るためだ。
つい2週間前の洪水を忘れさせるほどの静かな夜だ。
月明かりに照らされた長い廊下を歩き大広間へと続く扉に手をかけようとしたとき廊下の奥になにやら人影が見えた。
左目に大きな包帯をしたあの男だった。
男は医者がすぐそばにいるというのに焦点があっているのかさえも分からない光を灯さない目で外を見るだけだ。
「寝台へ戻らなくていいのか?」
声をかけたところで戻るつもりはないだろう。だが声をかけ続ける。
「僧侶たちはあんたのことを随分心配していた。何があったかは知らんが食事もろくにとらず人と話もしない。そんな様子を死んだ者たちは望んでいないはずだ」
そこで今まで無関心だった男の目の色が変わった。
「・・・あんたに、何が分かる・・・」
低く絞り出された言葉に男の傷の深さを改めて知る。
知らず、握る拳に力が入る。
「俺にはあんたの気持ちは分からない。だが俺も洪水で家族を失った」
一瞬驚いたように目を見開いたがすぐに苦しそうな目をして背けた。
「その様子なら体のほうは大丈夫のようだな」
昼間の様子そして今の短い男とのやりとりから、あの傷が洪水で出来たものならあり得ないとは思うがそう言葉が出た。
それと同時にあることを思い出した。
昔父と一緒に薬草探しをしていたとき誤って足を滑らせ崖から落ちたことがあった。幸いそう高い場所ではなく腕の骨を折っただけですんだ。
1ヶ月くらいで治ると父は言ったが実際は2週間で完治したのだった。あのときは自分は人より体が随分大きいからだと思ったのだが今考えるとそうではないのかもしれない。
思わず笑みがこぼれた。
この男ももしかしたら俺と同じ・・・そう思うとどこか懐かしいものを男から感じるような気がする。
だが今自分とこの男の関係には不要なもの。もしもそうなのであればいずれ運命が導くであろう。だから聞く必要はない。
「早く寝台に戻って体を休めるように。そして食事と治療だけはしっかりするように」
それだけ言うと大広間で体を休めている患者の元へと足を進めた。
家族を亡くし、そして自分に課せられた宿命を知った芳准は寺院で過ごしていた。
何も見ず、答えず、ただただ変わらぬ時を過ごすだけ。
どれだけ親友と恋人を捜しても見つからなかった。
いや、親友と、恋人と呼べないのかもしれない。
大好きで、大好きで。
昔からずっと一緒で。誰よりも理解していると思っていた。
だから裏切られたと知ったとき、悔しくて悲しくて。誰よりも2人のことを信じていたのに。
残ったのは、寺院で埋葬してくれた家族の墓。
助けを求める親友、だと思っていた男の最後の姿。
そして彼女に渡そうと一生懸命選んだ。けれど無くしてしまったと思った簪。
何故手に戻ったのか。
洪水被害者の遺品だと寺院に保管してあったのだ。
僧侶に聞くと若い娘が大事そうに持っていたのだという。
この簪を知ってるのは買い物につきあってもらった妹だけ。しかし妹は何も持っていなかったはずだ。
平常心ではなかったのだから単に見落としたのかも知れないが、もしかしたらと思う。
無くした簪を見つけた妹が彼女に渡したのかもしれない。
そう思うと、大切に持っていてくれた。
しかし彼女は俺を裏切った。
香蘭の真意は分からない。
そしてこの簪が彼女に渡そうとしたもので、簪を持っていたのが彼女だとしたら、彼女はもうこの世にいないことになる。
生まれたときからずっと過ごしてきた村。父も母も妹もそして将来を誓った彼女を失った。
無二の親友、そう思っていた男も濁流に飲み込まれてしまった。
生きていないと決まったわけでもないが、あれだけの洪水だ生きていることが奇跡的だ。
俺のような力がなければ・・・
そっと自分の右膝を見る。
今は何も現れていない。だがあのときみたのは確かに「井」の文字で、それは朱雀の巫女を守る七星士の証。
何も、守れやしないのに。何故俺が。
何も出来なかったのに。
朱雀七星士だなんて・・・
昔からの疑問の一つでした。あの状況で何故傷が残った物の完治できたのか。
七星士の力ってすごいんですよね><
2010.07.21